生涯衰えない行動力を支えるたった1つのこと
弘法大師に学ぶ、人生後半戦の備え方
空海を動かした、たった1つの志
宝亀5年(774)讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)に生まれた空海は、18歳で都の大学寮に入学するが中退してしまう。高級官吏への道を自ら閉ざしてしまったのだが、仏教に触れた空海には、地位や財産に拘泥することが虚しいことに思えたようだ。
私度僧(非公認の僧)になった空海は四国や近畿の山岳で修行を積んだという。空海はその様子を『三教指帰(さんごうしいき)』に「ある時は金峯山(きんぷせん)に登って雪に苦しみ、ある時は石鎚山(いしづちやま)の頂上で食料が絶えて苦境に陥った」と記している。
この修行で空海が重視したのが虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)であった。記憶力を増大させるという雑密(ぞうみつ=体系化される以前の密教)の修法であったが、陀羅尼を100万遍唱えなければならず、肉体的にも精神的にも厳しい行であった。
こうした苦行を通して空海の肉体と精神、行動力は鍛えられたのだろう。
だが、空海は山岳修行ばかりしていたわけではない。経典の研究と語学の学習にも労力を費やしていた。そして804年に唐に渡り、長安の青龍寺で恵果に師事、密教の正統な後継者としての資格を得る。806年に帰国、しばらく太宰府に留まったのちに京の高雄山寺に入る。
2年という短期間の唐留学で難解な密教を習得し、その正規の後継者となったことや通訳ができるほどの語学力があったことから考えると、入唐前に周到な準備があったものと思われる。
空海は当時の自分のことをこう言っている。「姿は笑うべきものだが、志は不抜のものだ」(『三教指帰』)。
その志とは、目先のことに囚らわれて真理を見ようとしない人々を仏法へ導くことであった。この志こそが厳しい修行に耐えさせ、さまざまな事業を成し遂げさせたのであろう。
晩年に至っても志は衰えなかった。59歳の空海はこう語っている。「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば、わが願いも尽きなん」(この世が終わり、すべての者が仏となる日まで、我が願いは尽きない)(「高野山万燈会願文」)
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